フィリピンの公用語とは何なのか?

「フィリピンの公用語とは何なのか」について、いつか書いてみたいと思っていた。

この議論は、フィリピン関係の日本人同士、実に果てしなく議論になっているお題である。
わたしの知っているだけでも、この四年で(SNSで)3回大きな議論があり、論破されたほうは一方のアンチになるということを繰り返してきた。闇深い題材なのだ。

だからいつか、4回目の大戦が起こる前に、自分なりの結論を書いておきたいと思ってきたので、改めて書いておきたいと思う。長文になるので、週末にでも読んで欲しい。

 

フィリピンの言語について、最初っから解説する

そもそも、この議論は「フィリピンの公用語は英語!」「いや違うタガログ語!」「バーカ!タガログ語じゃなくってフィリピノ語!!」「すいません。フィリピノ語ってなんですか?『ピリピノ語』なら知ってますけど?」というような煽り合いの事が多い。
なぜそうなるかというと、お互いソースがあるからだ。それもwikiであったり、大学の研究論文であったりするから、お互いに引くに引けず論戦となってしまう。

この議論をするには、まず最初から最後まで、本当のところはどうだったの?という正しい理解がないと解決できない。
わたしはフィリピンの専門家ではないが、私なりに調べたことを、恥ずかしながら披瀝してみたいと思う。細かいツッコミはあると思うが甘受してほしい。

最初っからの最初部分(1500年~1800年)

元々フィリピンという国はバラバラの群島である。古来は土着民が生活していたわけなんだけど、1521年にスペインが植民地支配を開始したわけだ。この辺りから触れて行こう。
(なおフィリピンというのは、当時「植民地の所領(メキシコ)扱い」である。植民地の植民地である。スペイン直轄ではない。これは知らない人が多い。それほどの扱いだったわけだ)

そもそも、スペインは植民地民に対してスペイン語を教えなかった。そんな必要も感じていなかったのだろう。
スペインやポルトガルという国は、植民地を作るのに慣れたベテラン国家だ。支配する者とされる者は、厳密に区別されていた。それは当然フィリピンにも適用されたわけだ。

それでもスペインは、少しづつ神学校を建てて、スペイン語でキリスト教義を普及させていった。これは現地のスペイン人のためのものなんだけど、それでも学ぶ現地人はいただろう。
注目すべきは、1634年に、あのフェリペ四世が「フィリピン人は全員スペイン語を話せるようにせよ」と布告を出したことである。(続けて1642年にもスペイン語を教えろと再度布告が出ている)(※このあたりはちょっと資料不足です)ま、支配してから113年後に、ようやく『覚えてもいいよ』といった程度の話である。

1700年代に入ると、スペイン人とフィリピン人は同居も認められ、学校も軍隊も、地方政府も揃い始める。ちょっと近代化してきたわけだ。こうなると、どうしたって言葉が必要となる。
スペインは、ご主人様の言語であるスペイン語を、なんとかフィリピンに根付かせようと、学校や教会で広めるようにはなった。ほとんど効果はなかったけど、やらないよりはよかった。

このころ、歴史上ではスペインとメキシコが喧嘩をはじめたのをご存じの方も多いと思う。高校の世界史で習った人もいるだろう。
ということは?なのである。フィリピンはスペインの植民地!というのは名義上のことで、メキシコの信託統治の部分もあったのだ。

その証拠に、スペインとメキシコの関係がおかしくなったとき、メキシコはフィリピンを防衛するようになった。フィリピンはメキシコのものだからである。フィリピンにしてみれば訳が分からないだろう。宗主国から守るために、宗主国の手下の軍隊が来てるんだから。本当にスペインというのは、細かい配慮ができない国である。

1764年には、スペイン軍全然役に立たずイギリスがマニラを一時占領するという事件まで起きる。

1821年、ついにスペインの植民地であったメキシコが独立する。それに伴って、フィリピンはメキシコの支配から外れ、スペイン直接の植民地となった。
当時に生きていれば、フィリピン人だっていつかはスペインから・・・と思って当然だろう。
フィリピンも、メキシコのようにスペインの植民地を逃れ、自立したい、独立したいと思いはじめるようになったわけだ。ご主人様権威失墜である。

だって、スペインの植民地のメキシコの植民地がフィリピンだったのに、そのメキシコが「スペイン上等だよボケ!二度と支配されねーよカス!」と大喧嘩して独立してしまったんだから、面目丸つぶれである。

慌てたスペインは、フィリピン愚民化政策を止めた。「まぁまぁフィリピンさん・・ある程度自由にしていいから独立するとか言うなよ」と、急に政策を緩め始めた。
1839年には、フィリピンにバンバン学校を建ててええよ、ということになる。さらに10年後にはフィリピン人に名前を付けることも許されるようになった。
(奴隷ではないということ。このころみんなスペイン風の名前を付けたので、フィリピン人はスペインっぽい名前の人が多いのだ)

メキシコを失ったスペインは、フィリピンに与えることもしたが、それは同時にスペインという大帝国の一員に相応しい植民地になれという要求もはじめた。
フィリピンの知的層はスペイン語の読み書きが出来なければならない!という政策が取られたわけだ。
(なお、フィリピンの初等教育は、この頃から完全男女同権で行われた為、今日に至るまでフィリピンは男女の社会進出に差がないのではないか、と思っている)

1868年には「スペイン語話せないヤツは公務員にしない法」まで作る。フィリピンの知的層はスペイン語を話せないと上に行けない時代となったのだ。
その甲斐あって、当時100人中3名がスペイン語を話せるまでになったという。

この時代は、スペイン語さえ読み書きできれば立身出世できるとも言えたので、フィリピン人は頑張って勉強した。スペイン語勉強ブームが起きたといえる。
使える文字が出来れば、知的レベルはグンと上がる。フィリピンはスペイン語ブームと相まって、芸術、新聞、歌や文学、芸術も一気に進化するようになった。とはいえ、これはマニラの一部の話であり、スペイン語を話すこと自体、本質的に嫌われていたという反証もある。

そしてついに、1800年代後半になると、フィリピン独立を企てるヤツらまで現れてしまう。フィリピン独立革命闘争である。

(ここまでが序文)

ここまでがザックリとした前史である。このころは、フィリピンといっても島ごとにバラバラだったし、特に南のほうなんかは、マニラの命令なんかどこ吹く風で勝手にやっていた時代である。

結論1:1800年代後半までは、フィリピンは島々ごと、バラバラの言葉を勝手に話している状態であり、その中でスペイン語を話せる人だけが知的層という社会であった
と結論したい。

(2)1800年代後半

1800年代後半からは、フィリピンの歴史は急を告げることとなる。1892年ホセリサール処刑。1897年独立宣言である。フィリピン最初の憲法である、ビアクナバト憲法が生まれた。
この憲法はスペイン語で書かれているのだが、公用語をタガログ語を定めている。フィリピノ語ではなくタガログ語であることに注意されたい)

公用語がタガログ語なのに、なぜスペイン語で書かれているのか。それは上記を我慢して読んでくれた人には理解しやすいだろう。
なおwikiにはスペイン語とタガログ語で書かれ公布されたと書いてあるが、正確にはスペイン語がオリジナルの成文憲法である。この憲法は現在有効ではない。

1898年米西戦争勃発。ともかくはじめての憲法が出来て一年後・・・いや正確には5ケ月25日後、アメリカとスペインが戦争をはじめてしまう。結果はアメリカの勝利。スペインはフィリピンを失った。新しいご主人様はアメリカである。

新しいご主人様アメリカ

世界の植民地支配の王様。これまでフィリピンを統治してきた大スペインは、たかが120年ほどの歴史しかない、アメリカとかいう新興国家に敗れた。
今度はフィリピンの地に、アメリカ人が乗り込んできたのである。しかも本格的植民地経営、海外領土は、フィリピンが初めてだというのだ。不安しかない。しかもアメリカは、来てすぐに軍政を敷いたのだ。フィリピンとアメリカとの最初の出会いは、決して歓迎されるものではなかった。

形式上独立宣言をしていたフィリピンは、改めてマロロス憲法を公布する。この憲法も、原文はスペイン語で書かれており、タガログ語で公布するという段階を踏んでいる。
そして、第二公用語をタガログ語(原文では「フィリピンで話されている言葉」とある)とした上、小学校から英語を学ぶことを義務づけておいて、公用語はスペイン語としたのである。
(これは正確な表記ではないが、大まかにはこういうことである。詳しくは原文を読んでもらいたい。第二公用語という表現はないんだけど、理解を助ける為便宜的に書いておく)

—なんと複雑であろうか!国の根幹である、「言葉」ということに関して、これほど複雑な決め事もないだろう。

これはどうしてこうなったのかというと、そもそも現実問題として、当時ようやっとスペイン語で国家経営をスタートしたのがフィリピンの現状なわけだ。
ご主人様が変わったからといって、急にアメリカ語に切り替えるわけにはいかないわけだ。(そもそも国民が全く英語を知らないんだから)
実際、アメリカが来てもフィリピン人らの知的エリート層はスペイン語を好んで使い、証明書やら行政やらの公文書は、全部スペイン語という有様であった。

当時の人たちは、歴史のページをまだ知らない。これからスペインが没落して、アメリカ一強時代になることを知らない。
もしかしたらスペインが戻ってきて、アメリカ人をぶっ殺して、再度スペインに戻る可能性もある。そう考えるとスペイン語を捨てることには、大きな躊躇いもあっただろう。

1898年、正式にフィリピンはアメリカの植民地となる(パリ条約)1899年、マロロス憲法発布される。
このあたり(1900年代)くらいになると、情報も多くある。まずアメリカは、フィリピンにとってスペインより優しい主人であった。台湾と日本のような関係と似ている。
アメリカはフィリピンに強制もしたけど、それは最小限であり、勧告や助言のほうが多かった。

優しくされると喜んでしまうのがフィリピン人。これまでのスペイン熱はどこへやら?1901年(つまりアメリカに代わってからわずか3年後ということだ)には、フィリピン人は率先して英語を勉強したがるようになる。そして、逆に知的層は英語を勉強するなと言い出して喧嘩になるのだ。
なにしろフィリピンを支配していたフィリピン人は、スペイン語こそ正義であって、自分達はそれを覚えたからこそ立身出世できたのであるから、いまさらもう一度別の言語をイチから勉強しなおすのは大変な苦痛だったからである。

しかし、公務員になれなかった中堅層にしてみれば、もはやカビの生えたスペイン語より、最新のご主人様アメリカ人の気を引くことのほうが、圧倒的に利益となった。
そしてまた、アメリカもそれに応えた。英語の普及に全力を挙げて取り組んだのだ。そしてわずか1年後の1902年、アメリカは「公用語は英語!スペイン語は止めにしまーす」と言い出したのである。とはいえ、このころはまだまだ、現地語、スペイン語混在であった。このころは、スペイン語から英語へ少しづつ切り替えていく時代だったといえる。
肝心の現地語については、まだ全く法整備されていない状態である。

国家の運営ともなると、一般的には50代、60代の男性が行うことが多いだろう。アメリカは、その人たちを殺すようなことはしなかった。そうも出来たハズなのに、それはしないで、10代、20代の若者に英語を教え、30代40代の中堅(これから国家を支える世代)を優遇することにした。植民地支配というよりパートナー関係に近い考え方をしたのだ。

その考えの最もたるものが、UP(フィリピン大学)の設立である。

このフィリピン大学はアメリカが建てた最先端のフィリピン国立大学(?)である。

当時、小学校すらまともな学年も無い時代、大学に入るというのは100%エリートしかいない。彼らはスペイン語を学び、カトリック教徒となる道を選ぶのが当然だったわけなんだけども、
UPはなんとスペイン語を排除した大学なのだ。正確にいえば、全講義を英語としたのだ。それをフィリピンの東大と位置づけた。アメリカが認める、唯一の正規国立大学としたわけだ。

UP卒業生は、スペイン語をまったく勉強する必要はないばかりか、思うがままに権力の座につけることとしたのだ。UPは全講義を英語と定め、卒業生にはアメリカ留学のチケット、そして国家官僚の無試験合格切符を発券したのだ。アメリカは、親米の若者たちを作ることから植民地経営をはじめたのである。

なおこの権威は今でも光り輝いており、フィリピンが国家として建てた大学は、厳密には今でも唯一、UPのみである。

このように、アメリカは、フィリピンの教育レベルを飛躍的に、急進的にあげた。植民地支配において、現地の土人など人間扱いしてはいけないのが常道というこの時代、アメリカは学校も文化も与えた。

あまりに英語熱が高まった結果、調子にのったアメリカは、学校で現地語を話すことを禁じた。そして公用語ではなく、英語のことを「共通語」と言い出すようになった(1909年)。
フィリピン人自身もそう考えていたほどであり、1900年初頭は、とにかく英語!という時代だったように思われる。

1916年くらいから、アメリカは、フィリピンに自治権を認め出し、1917年にはもうフィリピンのことはフィリピンでやっていいよということになった。
スペインと戦争までして手に入れたフィリピンを、わずか19年で自治権を認めたのである。

1922年までには、フィリピン議会は英語という慣習まで出来るようになった。

しかし、フィリピン人自身の知的レベルが上がるようになるということは、総じてナショナリズムに回帰していくのが当然だ。
どうしたって、家庭でお父さんお母さんが話すのは「土着現地語」であって、借り物の英語やスペイン語ではない。

1930年代くらいになると、フィリピンも成熟した国家としての自意識が芽生えてくる。どうしたって、自分たちの言語は英語ではないのだ。フィリピンにはフィリピンの、昔ながらの言葉がある。それは英語ではないのだ。ここまでは良いのだが、

—それはタガログ語なのだ!(マニラ近郊で話されている(=権力の集中しているフィリピンの首都で話されているタガログ族の言葉))
としたものだから、当然他の言語から猛反発を受ける。じゃあどうすんの?となって、この話は相当に迷走をすることとなる。表題の議論は、1930年代からああでもないこうでもないと、フィリピン人自身が議論してきたお題でもあるのだ。

1935年、いよいよフィリピンは独立した憲法を作る。(そのまんま1935年憲法と言われている)
この憲法において、フィリピンの公用語はスペイン語と英語を公用語としている。

なんで現地語がないのか?というのは、フィリピンの言葉は多すぎて、そのどれもが民族のアイデンティティに直接関わるものである譲れない一線である以上、どれかを公用語と定めることが、ついに出来なかったのではないかと思われる。

自分たちの言葉を憲法に採用できない。これでは真の独立でもなんでもないではないか!ということで、フィリピン人はどうしたらいいか激論となる。
その最中、もうタガログ語でいいじゃん!と、時の大統領ケソンは「タガログ語が国語な!」と大統領令を出してしまう。これは二年後に法令化されるんだけども、当然地方が「ハイそうですか」と言うわけがない。地方は相変わらず現地語を使っており、結局のところウヤムヤとなった。

フィリピンの権力とはマニラに集中しているんだけども、マニラはタガログ語であることから、権力者はタガログ語でいいじゃんもう・・・という強引な履歴が多く残っている。
しかし地方には地方の言い分があるので、なかなかうまくいかない。
1940年、憲法ではなく法律として、スペイン語、英語、国語のどれでも公用語ということにしたんだけど、国語ってなに?という定義についてはアイマイなままであった。

さらに余計なことが起こる。二年後、ご主人様アメリカが、我が大日本帝国に負けちゃったのだ。
あれほどフィリピンと一心同体だったハズのアメリカ軍は、皇軍の前に敗北し、フィリピン人を置いてオーストラリアに逃げちゃったのである!

次のご主人様は大日本帝国なのである

ついに我が国の登場なのである。日本は、新興国家アメリカとは違って、植民地支配には一日の長がある。先日も第一次世界大戦に勝って、ドイツからリャオトン半島分捕ったのである。
実戦経験豊富なイケイケ日本軍は、スペイン軍のようにはいかなかった。アメリカは、ようやく手に入れた植民地を失ったのである。

しかし我が国に、フィリピン支配100年の長久を練った人はいなかった。残念ながら、日本にとって「フィリピンの公用語はスペイン語~英語~いやいや現地語~」なんてことを考えていたひとはいない。これはどんな記録をひっくり返しても、ついに見つけることはできなかった。

日本はどうしたかというと、アメリカのように、現地民と相談しながら決めるようなことはしなかった。
「フィリピンの公用語はタガログ語!ハイ!これもう決定!分かったか!」ということで、話はそれでオシマイにしたのである。

押しつけではあるが、日本語にしろと言ったわけではない。そもそも開戦前から「フィリピンの国語はタガログ語」というのはフィリピン人自身が決めたことで、法的根拠があることなのだ。
日本にしてみれば、文字すら怪しかった台湾、朝鮮と違って、スペイン語、英語という土台の上に現地語があり、支配層がタガログ族なんだから、国語はタガログ語としてしまえばそれで良かったわけだ。他の民族の抗議など、はっきりいってどうでもいいことである。

また、この時代になってくると、ラジオ放送というメディアが生まれている。誰もが文明の利器であるラジオから情報を貰うのが、最先端のことであった。
その放送がタガログ語主体、英語の歌であったのだから、子供も大人も自然にタガログ語の語彙を増やすことになる。聞き取れないのはカッコ悪い田舎者、ラジオも聞けない貧乏人ということにもなろう。日本の押しつけは乱暴だけど、理がないとまでは言えない。

 

日本負ける

さて、3年後・・いやフィリピンにとっては2年後なんだけども、ご主人様日本は、旧ご主人様アメリカと、壮絶な殺し合いの末に負けてしまう。
1946年!とうとうフィリピンは、本当の独立をすることが出来たわけだ。このとき、再度改めて、タガログ語を国語と定めている。

しかし!なのである。結局タガログ語を国語!としても、地方にとっては新たな言語を取得するのに等しいということで、マニラがタガログ!タガログ!といっても、ビサヤやミンダナオはぜんぜん言うことを聞いてくれないのである!ここから先は、またまた混迷の時代になり、やっぱり最初のスペイン語に戻した方がよくね?という動きすらでてしまう始末である。

アメリカと二人三脚の間は、どんどん話が進んでいたのに、フィリピン人だけとなると遅くなってしまう。というのも、フィリピンほど細かい群島国家となると、国家としての意思統一というよりも「島のことは島のことで決める」となって、中央の命令も届きにくいのである。スペイン、アメリカ、日本の言うことは聞いても、自分たちフィリピン政府となると、ひとつ軽く見るのだろうか。フィリピンは言葉をまとめるより先に、自分たちはフィリピンという国家に帰属しているフィリピン人だぞ!というところからスタートすることになった。これは独立後の話である!(このころに決まった法律が今でも有効なので、フィリピンの学校では毎日国旗掲揚して国歌歌っているのである)

1950年代は、なんとかタガログ語を使わせようという法律が目に付くんだけど、1960年代になると、それを民族語と言い換えるようになる。
一部スペイン語に戻そうという動きがあったため、このころは、子供たちは3つ(正確には4つ)の言語を覚えるという有様であった。おかげで算数や理科等に時間を使うことができないのが、後々フィリピンの発展を阻害する遠因となった気もしている。

1960年代になると、さらに混迷する。タガログ語の押しつけに反発するひとが増えた結果、フィリピン全土で第一言語がセブアーノ語になってしまう現象が起こったり、古代タガログ語も学ばせろだのいった、行き過ぎたナショナリズム運動が起こったりする。

1970年ごろになると、さすがに落ち着きをみせ、学校で教えられる「国語」(これをピリピノ語という)(タガログ語に寄せたんだけど、他の言語にも配慮してある共通語のこと)ということで、おおよそ流れが決まった。これはなにか法律としてきまったわけではないけども、タガログ語中心というのは動かしがたいことであり、1971年に、新たにアルファベットを31として、俺らのピリピノ語を作ることとしたのである。1973年また憲法が出来るけど、お題と関係ないので省略。

1987年。フィリピンの最も新しい憲法。その名も1987年憲法という、そのまんまの憲法が出来た。
ここでは、公用語は英語とピリピノ語と定められている。だからフィリピンの公用語は、フィリピン語と英語であるという点において、議論の余地はない。

フィリピンの公用語についての決着(結論)

フィリピンの公用語とは、英語ではない。「英語とフィリピン語」だ。正確には英語とピリピノ語だ。
そして、かつて定められた「スペイン語時代」の取り決めは、廃止になっていない。だから公用語としてスペイン語も含まれる。
フィリピンの裁判は、1940年までスペイン語で行われていた。つい最近のことである、といっていい。

だからフィリピンの公用語にスペイン語が含まれるというのは、間違いではない。大統領令も法律も、取り消されていないからだ。ただし、現実として、いまフィリピンの役所にスペイン語を書いて提出したとしても、役人は読めないだろう。ただし、純粋な法解釈としては、読めないとして突っぱねられることはない。(ただしそれが正しく処理されるかどうかは別問題である)

フィリピンはメキシコ風スペイン時代のレガシーが、まだほのかに残っている国である。数百年も支配されていた歴史をナメてはいけない。
フィリピンにとって、スペイン語とは、古い時代の遺産のようなものだ。それが法令や法律の一部にまだ残っており、一部は有効に適用されている以上、厳密にいえば、スペイン語、英語、ピリピノ語がフィリピン共和国の公用語である、というのが私の結論だ。

 

終わりに

最後にエクスキューズを書くのは蛇足だけど、この記事は、いつものように酔っぱらいながら書いたので、厳密にはいくつか間違いがあるかもしれない。
細かい点においては、揚げ足を取られる表現も使っている。土台私は、このような重厚な記事を書くタイプの書き手ではないのだ。
筆者としては、「フィリピンの公用語はーー!」という無駄な議論を止めにして欲しいという一点で書き上げたつもりだ。
読んでもらって分かったと思うけど、この議論というのは、知れば知るほどグダグダであり、一体なんなのかわからなくなるだろう。

時代、為政者、そして当のフィリピン人自身においても、ルールも定義も変わっていき、フィリピン語というもの自体がなんなのかも、最後のところは結論がないのだ。

まあ、もう面倒くさいので、エイヤっと掲載してしまおう。

読者の方においては、フィリピンの公用語議論の、おおよその歴史の流れだけでも把握していただければ深甚である。(了