神奈川と連携して学用品を配った件(1)

今週は呑み会が多かった。ようやく自宅にたどり着いて🍺を飲んでいるワイである。

さて今日は昔話をしようと思う。表題の通り、神奈川県の小学校とフィリピンを結ぶボランティアをした時の話をしよう。

神奈川の学用品をレイテに配るのだ

フィリピンでボランティアをしたい。という方と出会うことは、時々ある。わたしはそういうのが嫌いなんで、他の日本人と一緒にやれば?というオーラを出しているんだが、この件は少し違った。

このひとは、どこぞのNGOとかにも所属せず、たったひとりの手弁当でボランティア活動をしたいという人であり。
全く。なんの。一切の見返りも期待せず、単純にボランティアをしたいという人だった。女性であったが、自分の身体に異常があり、子供を作れないひとだった。

半年ほどもやり取りして、彼女はフィリピンに来た。そして、日本とは違う現実を見て帰った。

普通、そこで心が折れる筈なんだが。彼女は闘志を新たに、自分が出来ることをし始めたのである(そんなことをしているとは思わなかった)

そして、ついに、神奈川県の小学校で「短くなった鉛筆や消しゴム」等の学用品を集めまくることに成功し、再度、配る話になったんである。

正直いって、ボランティア関係の話なんて、たいてい古着なんで、まず学用品を集めたということに驚いた。これ、文章で書くのは簡単だけど、かなり凄い話だ。

当時、フィリピンでは台風オンドイという巨大台風がブチ当たっていたんで、学用品どころか校舎ごと消えてなくなっていたんだが、いわゆるオンドイ後、我々は災害後のレイテで寄付をすることにした。

レイテ島について、学校で学用品を配ったときの反応は凄かった。もう、奪い合いである。消しゴムなんて数万個もあったんだが、ものの5分で無くなった。開封した瞬間、あれほど手が伸びてきて、モノが無くなったのを、俺の人生で他に知らない。

レイテくらいの田舎だと、学校までナン十キロなんてガキが登校している。私が選んだ学校は、特にそういう学校だったので、子供らは、神奈川ではゴミとなって捨てられた学用品を、必死に奪い取ったのだ。寄付した側にしてみると、まさに満足すべき結果だった。また、子供に対してのボランティアをしたのは、当時初めてだった。ああ、こういう風に奪い合いになるんだなという経験をすることもできた。次回からは弱い子供も受け取れるようにしなくては…ああ!そうだ。寄付者である神奈川県の協力者に、写真の一枚も撮影しなきゃいけなかった。
等々、反省も多い寄付であったが、とにかく、おかしな中間業者無し。100%の寄付を出来たのは良かった。

ま。挨拶した校長なんて「この学校にはプリンターがない…次回持ってきてもらえるとありがたい…」なんつってるんである。
ちなみに、その学校は、偶然にも日本のODAで建てられた校舎であった(笑)プリンターが欲しいなら、日本国旗くらいペイントしとけ!と、軽口も叩いておいた。

とにもかくにも。神奈川のガキが捨てた消しゴムや鉛筆は、フィリピンで有効に活用されたわけだ。

この話。悲しいオチがあるんで、続きはまた今度書きます。